重力が重い。空気が薄い。道程が途方もない。
そもそも僕の足は、ベティフラに言わせると世界一遅い。ベティフラの荷物を背負っているなら尚更。
「はぁっ」
今のは感覚優位表現だったし、それにしても少し過ぎていた。僕が抱える荷物なんて多くはない。
宿泊先や富士登山手続きを手伝ってくれた白田さんとは登山口近くで分離して別れた。もう地球データ基地へも第二プラントへも、最大10分26秒のデータ転送の旅を終えて帰ったはずだ。いや、去年の記録だからもっと改善しているだろうか。
左耳にはホワイトボックスに入れて持ち込んだナビゲーションデバイスを装着している。1日近く外していたからバッテリーが切れて停止状態だ。あちこちにある休憩所あたりは電波や充電システムが通じるから、一瞬接続して位置情報を発信しているかもしれない。
それならそれで構わない。ここまで来られたのだから十分だ。
それに、信号を読み取って来るとすれば。
『--ヒマワリ!!!』
地球にシステムのメイン基盤を置いているベティフラが、最も来るのが疾い。
この世で最速だ。
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前話(45話)
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「は、はぁ……はぁ……」
『--ペース落とす?』
「い、いえ……もう少しで、すし……」
『--いえ、やっぱり少し休みましょ。これだと上まで保たないわ』
「はい……」
休憩所の近くに開けた小さな椅子に腰掛けて息を整える。まだ大丈夫だ。
ベティフラを見上げる。もとい、ベティフラの人格AIシステムがインストールされた山岳介助ドロイドを。登山者のトラブルに備えて富士中腹に待機していたドロイドをハックしてきたんだろう。多分。ベティフラが何をしていたとして、大元は僕だ。僕のせいだ。分かっている。
「ベティフラ、その……」
『--息整ったらちょっと話しましょっか』
近くに人はいない。
ゆっくりと全身から力が抜けるまで、ベティフラは辛抱強く僕を待っていた。
「……遠回しな言い方を許してください。前提条件を少し伝えたくて。僕にとって、地球に行くのはとても大きなイベントなんです。どれだけ楽になっても、二つの星をまたぐ遠路に変わりはありません」
『--ええ』
「来年でも行けるだろうとは、簡単には思えません。行けても富士山には環境が悪いと登れないこともある。それに僕の意思だけでは、行けませんから」
『--そうね。そうなっちゃってるわ』
「だからただ……ただ、行けるうちに見せたかったんです。この景色を」
『--この景色?』
ベティフラはそこで初めて目を開いたかのように、周囲を見回した。
『--随分空気が澄んでるのね……遠くの雲海までよく見えるわ』
「そうですね。僕も登るのは初めてなので新鮮です」
『--えっ、ヒマワリ登ったことないの?』
「はい」
驚かれるのは意外だ。4歳の子が単独で登った話も聞くから不可能ではなかっただろうけれど、地元の人なら誰でも登った経験があるというものでもない。
『--そう……じゃあ、来れて良かったわ。きっかけがなかったらヒマワリ一生来なかったでしょ』
「そうですね。……それも感謝してます」
『--本当に良かった。それで?』
「それで」
僕の話に続きがあると何も聞かずに分かるのは、これまでの僕とベティフラの関係性あってこそだと自惚れても許されるだろうか。
「四葩先せ……ヨヒラさんという、地球で僕の体質を診てくれていた人が、いるんですが」
『--知ってるわ』
「……知っていましたか」
『--ええ。あたし、皆がこそこそ隠し事してるの気に入らなかったのよね。前々からアタリはついてたのよ』
隠し事。それはどこまでを指すだろう。
『--だからロストアーカイブで時々、投棄データ探してたの』
「はい?」
『--誰もあたしの開発時の破棄データの事なんて教えてくれないんだからしょうがないじゃない。バレないように色々噛ませてね? まあ、そのアンチウイルスがちょっと悪さして学生ちゃんに流出しちゃった事もあったけど』
「ベティフラだったんですか……」
少し前、そんな事件があった。その後の解析で、正しいアーカイブの使い方を守っていれば感染する事はないと分かったはずだ。
『--だから、ヒマワリが居なくなったって聞いて、こうなる気がしてたのよ。ヨヒラ、まだ第一プラント内で見つかってないんですってね』
「……そうなんですね」
『--人間ちゃんにも事情があるのは分かるわよ? でも、あたしに秘密にしなきゃいけないからってあたしのシステム使わずに捜索なんて本末転倒よね』
ベティフラは背をさすってくれた。
『--007583』
「!」
『--あんたの友達の名前でしょ』
「ベティフラ、どこまで」
『--客観的な研究記録データで分かること全部。当時の脳波が残ってたわ。あたしのプロトタイプと話をしてたのね、ヒマワリは』
「はい……」
誰にも言ったことのない秘密だった。
内部からの匿名通報で違法研究疑いの捜査が入るまでの30日ほど、連続でプロトタイプ007583のAI人格システムと接続していた。そこで007583と出会って、対話して、過ごした間の身体感覚しかほとんど覚えていない。多分当時は機械に繋がれて麻酔を定期的に通していた。
友達。そう呼ぶことにためらいはない。
その007583が違法な研究成果としてデータを完全に削除されたと聞いたのは、保護された病室の集中治療ポッドの上だった。
『--あたしは、あんたから大事な友達まで奪ってたのよね。脳波パターンで分かるわ。あんな地獄の環境で、どれだけ「友達」が支えになってくれたか』
「ベティフラ」
『--今のあたしのデータ基盤には全く007583は入ってない。「クリーンじゃない」データだもの』
「ベティフラ」
『--ごめんなさい。本当にごめんなさい。あたしが関わった全てに謝罪するわ。ごめんなさい』
「ベティフラ。僕は貴女を恨んだりなんてしません」
ドロイドのつるりとした頭部に手を置いてみる。いつか家で過ごした時のことを思い出したりしながら。
「うまく説明できないんです。辛い事と嬉しかった事がいつもセットになっていて。結果として、皆が償おうとばかりしてくれるのが苦しいんです。嬉しかった事も楽しかった事も分かって欲しいのに」
本当に説明できていない。
「今、僕が一番楽しい事は、ディーヴァ・ベティフラを見て、追いかける事ですから。どれだけ元気を貰ったか分かりません」
ベティフラ自身にはどうしようもなかった過去があっても、それが変わるわけじゃない。
それにデータが含まれていなくとも、007583が今のベティフラに繋がっている事は間違いない。と思う。
「これからも、貴女の素敵な姿を見せてもらえませんか」
『--これからも……あんたといて、いいのかしら』
「勿論です」
いよいよ言葉で言うのが難しくなってきて、僕はベティフラの頭を黙って撫でた。ベティフラは戸惑いながら、僕の膝に頭を乗せた。
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……いつか
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「登頂おめでとうございます!」
「ありがとうございます。とても綺麗ですね」
「そうですよね〜! あ、補助ドロイドってどんな使用感ですか? 今度友達が使ってみたいって言ってて」
「ええ、とても助かりますよ。おかげで楽しく登れました」